2008.06.30 「にいつ丘陵周辺の遺跡 第1話」
新潟市の南部にあるにいつ丘陵は、南南西から北北東にのびるゆるやかな丘陵です。標高は南西部の菩提寺山で248.4メートル、北北東に向かって少しずつ低くなり、丘陵の一番北にある秋葉山の付近では70~80メートルです。丘陵の周りには、小規模な台地をはさんで、沖積地が広がっています。

にいつ丘陵周辺の地勢(国土地理院20万分の1地勢図「新潟」)
沖積地の西には信濃川が、ほぼ南から北へと流れ、東には阿賀野川が南東から北西方向へと流れています。
この二つの大きな川は、秋葉区の一番北にある小阿賀野川で結ばれています。にいつ丘陵の北東には能代川(一部、現在は新津川)が流れています。能代川は曲がりくねりながら新津市街を流れ、小阿賀野川に注いでいます。信濃川や阿賀野川の流れは、長い歴史のなかで何度も変化しました。沖積地のなかには、かつて流れていた川の洪水によって作られた自然の堤防やほんの少し高い土地があちこちにあります。
この地域で見つかった一番古いものは、約2万年前の石器です。当時は今よりも気温が低く、地形も今とはまったく違っていました。人々は石でできた道具を使ってえものを追っていました。
縄文時代、今のようなあたたかい気候の時代がやってきて、人びとは豊かな自然のめぐみを受けていました。野山にあるトチやクルミなどの木の実は大切な食べ物でした。
弥生時代、西日本から稲作と鉄器の文化がやってきました。稲作によって社会は大きく変わり、やがて争いも起こるようになりました。古津八幡山遺跡は標高50メートルの高い場所にできた防ぎょ性の高い集落(高地性環濠集落)でした。
古墳時代になると、人びとは沖積平野の中のほんの少し高い土地や自然の堤防の上に暮らすようになりました。かつて高地性環濠集落があった丘陵には、古津八幡山古墳が作られました。まいそうされたのは、この地域を治めた首長だと思われます。
奈良・平安時代、平野には多くの集落ができました。丘陵では、まきや木炭を燃料として焼きものが焼かれ、鉄が作られました。作られたものは、新潟市域を中心とする越後平野で広く使われました。
中世、武士たちの戦いがくり返されました。武士は、丘陵に山城を作り、平野にはほりをめぐらせた屋しきを作っていました。丘陵北部の東島城あとは、この地域で大きな力を持っていた新津氏の山城と考えられています。
第2話につづく
【平成19年発行 新・新潟歴史双書2「新潟市の遺跡」】より
投稿者 : akihaku | コメント(0) | トラックバック(0) |

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